灰色の過去























 私はずっと彼を好きだった。それは変わらぬ事実であり、何度生まれ変わろうと、それはきっと変わらないのだろう。そう思うくらいには、彼を好いていました。ですが、彼以上に大事だと思うものがあったのです。恋以上に大事なものがあるのは、当然、不思議なことではありません。だから、後悔などないのです。正確に言えば、もし時間を巻き戻せたとしても、私は同じことをするに違いないのだから、後悔などしても栓なきことなのです。彼が心を閉ざし続けた3年間、何があったかなど、人伝にしか知らぬ私を薄情だと言うならば、それはその通りなのでしょう。私はその間の忍人に会っていないし、連絡も取っていないのですから。
 一度だけ、忍人から連絡があったのです。その時に何か出来ていれば、何か変わったのかもしれない。そう思っても、結果は同じ。私はきっと繰り返すのだろうから。
 当時、私は大学4年の年だったように覚えています。大学院に行くつもりでしたので、同級生のように就職活動というものはしていませんでしたし、授業もほぼありませんでした。卒業論文を書く必要はあったので、大学に通ってはいましたが、学生としての義務などほぼ無いに等しかった。
 しかし、私にも使命というものがあるのです。人は何らかの使命を背負い、生まれてくるもの。だとすれば、それは使命としか言い様がなかった。私にしか出来ぬこと。友人が為そうとする偉業の手助けこそ、私の使命でした。
 私には、未来を視る力があった。友人の為す結果を視ることが出来た。私が手を貸すことによって、それは成功を収める。その未来が見えていました。運命というものは一本の大きな川のようなもので、流れる本流を変えることは出来ません。流れ着く先は一つ。ですが、支流は変わるもの。友の不幸も同時に見えていたのです。私が変える支流は、友の幸いを左右するものでした。私に為したいことなどなかったけれど、大事な友人を捨てることは出来なかった。だから、結果、忍人を見捨てたのです。

「…忍人?」

 彼から連絡を取るだなんて、大変珍しいことでした。そもそも私と忍人が連絡を取り合うことも極端に少なかった。私は彼を好いていたので、少なからず胸が高鳴ったのですが、それ以上に彼の様子がおかしいと、そう思ったのです。

「突然連絡してすまない」
「いえ…何かご用ですか?」

 そう聞いておきながら、私は彼の用件を済ませることはしないのだろうと薄々気付いていました。余程のことがない限り、彼が私に助けを、いえ他人に助けを求める筈がないのです。当時の私に、それを為すだけの余力はなかった。ただ事ではないことは分かっていましたが、それでも私の中の答えは固まっていた。私はうまくその場を切り抜ける言い訳だけを考えることにしたのです。彼を知りすぎては、助けたくなる。その結果がどうなるか私には分かっていた。だから、知らぬようにと心がけたのです。

「……少し会って話をしたい。だが、忙しいのだろう?」
「…ええ。そうですね」

 忍人は昔からそうだ。私の核心に触れるようなことはしない。それが触れてほしくないことであればあるほど、決して踏み込んでこないのです。

「……それならいい。突然悪かったな」
「いえ…そちらも無理をしないよう」

 3年という長い年月の間に、私と忍人の会話はこれだけでした。恋人同士だったわけでも、親友だったわけでもなく、単なる昔からの友人という関係。ですが、私も、そしておそらく彼も、互いを好いていた。その二人の会話がたったこれだけだったのです。
 もし、私が君の助けを求める合図に、気付き、手を差し伸べていれば、もう少し君は今幸せでしたか、忍人。
 そんなことは聞けるわけがなく。だって、私は気付いていましたし、知った上で君のことを見ないフリをしたのですから、今更それを聞く権利さえないのです。そしてここから先の彼に関する話は私が実際に見たことではなく、誰かが見たことを風早や道臣殿が聞いて、それを伝え聞いたに過ぎません。風早や道臣殿も私同様に手を差し伸べなかった罪はあるとしても、それでも最後まで気付かぬフリをした私よりずっとマシでしょう。

「ねぇ、柊。少し話があるんだ。いいかな」

 忍人以上に風早とは長らく接点がなかったのですが、彼は私に直接会いに来ました。風早にとって、優先すべきはまず千尋様であり、次に大事にしていたのは那岐でした。彼らを除いては、風早は誰に対しても平等に情深かった。少なくとも同門の私達には平等に。忍人のことを気にかけるのは当然のことでしょう。ですが、私よりも先に連絡が入ったのは少しばかり悔しいものでした。そう言うと彼は決まって、「葦原本家とは近いからね」と苦笑するのです。

「忍人が倒れたこと、知っていますか?」
「…いえ、私の耳には届いていませんよ」

 正確に言えば私は知っていた。はっきりとではありませんが、私にはその光景も見えていました。

「見舞い、誰も来ないみたいで。だから、貴方にも来てほしいんです」

 風早や道臣殿にはそれぞれの生活がありましたが、彼らはそれでも時間を見付けて忍人に会いに行っていたようです。しかし同門の縁のある彼らが忍人のことを見舞っても、身内は誰一人来ませんでした。高校生である彼に、誰も。
 彼の家庭環境は少々複雑でした。葛城の家に生まれ、彼は間違いなく後継ぎになる筈でした。しかし早くに父を亡くし、親戚がその仕事を受け継ぎました。それでも忍人は後継ぎとして育てられました。彼は非常に努力家で、期待には応えていた。ですが、忍人の母親はそのような重圧には耐えられなかった。
 よくある話です。そんな重圧から逃れる為に別の何かを捨てるのは。その方は忍人を捨てて、別の男性のもとに逃げただけ。責任感が強い忍人は母の為にもと努力を続けてきたが、報われなかった。そんな話は何も彼に限ったことではないでしょう。しかし、それが幼子の心をどれだけ傷付けるかなど、体験したことのない者には推し量れません。
 それが忍人が16歳の頃の話です。祖父に引き取られた彼は変わらず努力を続けましたが、もう彼を省みる者はいなかった。葛城の後継ぎとして見られても、ただの子どもとして見る者などいなかったのです。それが彼の最大の不幸でした。
 努力家である彼は頑なに期待に応える為、学問や教養にも励んできました。忍人は昔から賢い子でしたから、県内でも有数の名門校で、上位の成績だったそうですよ。ですが、それを保つ為にどれほどの犠牲を要したのか。彼は天才ではなく、あくまで秀才の類ですから、決して努力もせずにそれを保つことなど出来ないのです。忍人には羽張彦のようなカリスマ性や容量の良さもなければ、私や風早のように適度に済ませるということも出来なかった。仮に道臣殿のように自分の力量を知り、ある程度の妥協を知っていれば、忍人は自分の身を削ってまで努力しようなどと思わなかったのでしょう。
 健康に過ごしている日々でしたら、忍人のような不器用な生き方にも問題はないのです。ですが、彼は病を患った。そして患った病に気付く者など、本人以外にいなかった。よく見れば分かることを、誰も見なかったのですから、当然の結果ですね。病の為、食が細くなったことも、身体を鍛えている若者であるにも関わらず、華奢であることも、誰も気付かなかった。
 無理がたたり、彼はとうとう倒れてしまった。長年患ってきた病は治ったものの、衰えた身体は戻らないらしく、今後も様々な病が彼を苦しめるだろうこと。それ故に彼は葛城の後継者としての地位も失うのです。

「……忍人」

 私は3年という時を経て、漸く忍人に会いに行きました。彼が花を喜ぶのかどうかは些か疑問でしたが、彩りに欠けるだろう病室に花は無難だと思い、出来る限り明るい色の物を選びました。
 私が声をかけたことに気付かなかったわけではないと思いますが、彼は私に一瞥もせず、ずっと窓の外を見ていました。灰色の空と裸の木があるばかりで、何も面白いものもありませんでした。彼と同じように私も黙って外を眺めてみましたが、やはり面白いものでもありませんでした。

「……今は時間、大丈夫なのか?」

 漸く忍人の声を聞けて、私はホッとしました。何故このようなことを聞いたのか、嫌味なのかそれとも単純に私の身を案じてかは分からなかったのですが、どちらでも良かった。聞くことが出来て単純に嬉しかったのです。

「ええ。一段落つきましたから」
「…そうか」

 また暫く沈黙が続きました。私も、忍人も、続けるべき会話が見付からなかったのです。話すことは互いにある筈なのに、どうしたら良いのか互いに分からなかった。
 彼はまるで迷い子のような表情で、灰色の空を見ていました。当然と言えば当然でしょう。生きる指標を失うにはあまりに若すぎた。今まで遊びも、趣味も持たずに生きてきた人間とは脆いものです。そう仕向けたのは他人。それには私も含まれているのでしょう。
 時間は戻りません。私の罪も消えません。ですが、許されるのであれば――。

「忍人、私と一緒に暮らしませんか?」
「…今、何と…」
「幸いなことに私の住んでいる場所から近い大学もありますし、そこは貴方の学力と比べても遜色ない。だから、忍人、私と共に暮らしましょう?」

 忍人は驚きを隠せない表情で私を見詰めていました。まるで何を馬鹿なことを言っているのだろうと、そんな瞳で。それは昔の彼を思わせるもので、私はそれが嬉しかった。

「お前にそんなことをしてもらう義理などない」
「ですが、今更葛城の家に戻れますか?一人では生きていけないでしょう。貴方は未成年ですから、何をするにも保護者が必要となる」
「……」
「葛城の家に戻れば、次こそ死にますよ。私にはそれが見えています」

 未来が見えたわけではありません。ですが、そんなこと見なくとも分かることです。嘘ではないでしょう。

「……だが、俺は誰の世話にもなる気はない。これ以上……」

 それに続く言葉を忍人は言いませんでした。苦虫を潰したような表情で黙っていました。
 以前の忍人でも他人の世話になることを嫌がっていましたが、このような表情を浮かべたことはありませんでした。悔しさ、憎悪、悲哀、様々な表情が混ざっていて、「今更だ」と言われているような心地になりました。そう、“今更”。ですが、私は貴方をここで失いたくはないのです。

「では、こうしましょう。今はまだ私も院生ですが、働かなくてはなりません。家事をしている暇もないでしょうし、一人では何かと不経済なのですよ」
「……」
「だから、貴方が家事する代わりに、私は貴方を住まわせる。これで対等、でしょう?」
「しかし、俺は料理など殆どしたことがないのは知っているだろう?それのどこが対等だ」
「私も料理はしたくはありません。だから、自分自身で覚えて、美味しい物を私に食べさせて下さい」
「……」

 やり直せなくても良かった。ただ、もう忍人も解放されて良い頃でしょう。そしてそれが出来るのは私。答えなど分かりきっていることです。

「……お前も、物好きだな」
「ええ。予想の出来ないものは面白いでしょう」

 そして始まった、忍人と私の生活。忍人の学力ならば、例え入院期間を考慮しても十分に国立大学に行くことは可能でした。一緒に暮らし、身体はともかく、忍人は私がよく知る頃と同じように表情が豊かになりました。
 しかし、一度見捨てた私に忍人が当時のことを語ることはない。そして身体を重ねるようになってからも、一度たりとも忍人の口から愛の言葉を聞くことはありません。彼は一生私にそれを言う気はないようで、ですがそれこそが私への罰なのでしょう。助けを求め、差し伸べようとした手に気付かぬフリをした私に対する罰であり、そして彼はそれでも離れぬ私を見て、満足しているのです。私に対する罰、そして挑発なのです。愛を囁く私に対する挑発であり、それで離れていくようであればその姿を嘲笑うつもりなのでしょう。
 ですが、私は知っています。その裏にある感情を。離れていかぬことを望んでいる臆病者である面を、私は知っている。だから罰を甘んじて受け、彼の挑発に付き合うのです。それこそ、残りの全ての人生を懸けて。
































あとがき
 そこそこ気に入ってはいるんですけど、ちょっと時間軸がおかしいかもしれません←
 気に入ってるだけで少し、電波な文章ですよねorz 見づらくてすみません。こんな雰囲気の柊忍が好きなんです。はい。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございます。












back