第三話
















 多くの仲間を残したまま、千尋達は天鳥船の指針のまま、熊野に辿り着いた。そして、そこで中つ国の旧臣、狭井君に会い、彼女にこう言われた。

「あなたに、この場所から龍の降臨を祈っていただきたいのです」

 その言葉に千尋の胸はドクンと心臓が脈打つ。
 出雲での戦はまだ記憶に新しい。あの火の雨は千尋が力を欲した時に、応えるように降り注いだ。あれは人ならざるものの力だ。龍もまた人ではない。人ならざるものに頼った代償は一体誰に来るのか。そう考えると素直に頷くことは出来ない。
 そして、そもそも、千尋には龍の声は聞こえないのだ。神子と呼ばれてはいても、龍の声を聞いたことは一度もない。

「龍に祈る、なんて私は――」

 できない。そう続けるつもりだった。

「ですが、中つ国を再興するには、もうこの方法しかありません」

 狭井君はそう続ける。

「正直、橿原宮を取り戻すには、今のこちらの兵力では難しい。私が手配できる兵を姫の軍に加えたとしても、正面から戦ってこちらに分があるとはとても考えられない」
「……っ……」
「ですから、今こそ龍神の力が必要なときなのです」

 軍略に明るくない千尋でも分かることだが、数の原理で圧倒的に不利な状況にあることは明確である。中つ国の兵は一万に満たない。それに引き替え、常世の国は数万。正攻法では勝てないことは目に見えていて、別の手立てが必要なのである。それは千尋も理解している。どういう方法が正しいのかは分からないが。

「中つ国の王族の血を受け継ぐ者として何をすべきなのか……姫、あなたならもう、おわかりですね」

 中つ国は長らく龍神の加護のある国として栄えてきた。龍神の加護こそが王位の正統性なのだ。千尋の母も姉も、祈りを捧げ、龍の声を聞き、加護を受けてきた。

(でも………)

 それでも千尋は躊躇いを覚える。

(神に力を求めることは危険じゃないのかな)

 千尋の脳裏に過ぎるのは、あの火の雨と仲間達のことだ。

「どうか、なさいましたか?」
「あ、いえ………」
「不安を抱かれるお気持ちはよくわかります。ですが、これは中つ国に暮らすすべての民の願い。龍が現れ、中つ国が息を吹き返す。そんな民の望みのためにどうか、祈ってはいただけませんか」

 民の望みという言葉に千尋は反応する。民の為というのは、千尋の戦う理由の一つだ。
 龍神の祈りを捧げることが彼らの願いならば叶えたいとも思う。龍神の声を聞くことができない千尋の祈りに、龍神が応えるかどうかは分からないが。そもそも、祈りというのは、行為だけでも政治的な意味があることは、千尋も何となくだが知っている。祈りの本質とは外れるが、その行為で民の気持ちをある程度満たせるのであれば、出来る限りのことをするのも千尋の役目なのだろう。

「――わかりました。私に、どこまでできるかわからないけれど」

 その言葉を聞いて、狭井君は満足そうに微笑んだ。

「それでは、二ノ姫。祈りの前に、まずは、禊を済ませてきて下さい」
「禊?」
「詳しいことは姫の部下の者に問えばわかるはず。禊を終わられましたら再び、この地にお越しくださいますよう」
「は、はい……」

 禊の説明を受け、早速済ませようと指定された場所に向かうのだが、水が枯れていたのだ。それは周辺各地も同様であり、解決する為にも周辺の村から話を聞くことにした。
 しかしそこで聞いたのは川の異変だけではない。住民達の悲痛な声を千尋はたくさん聞くことになった。

 荒魂が増えた。
 実りも悪い。
 それでも租税はきちんと納めなくてはいけない。

(民は、いろんなことで困っている)

 それは彼らの生活に関わる重要な問題だ。生きていけるギリギリの範囲まで削っていいわけではない。実りが悪いのならば、王族や豪族も同じように我慢すべきだ。荒魂の脅威から守れていないのに、租税を同じだけ村人から取るのはおかしいと千尋は思う。
 実りが少ない時に村人達の暮らしがどうなのか、今自分が得ている物はどこから来ているものなのか。分かっていたようで分かっていなかったのだ。知識として知っていただけで、実情を理解していなかった。

(これからは、もっと広い視野で物事を見ていかないと…)

 もし国を治めることになるならば、もっと広い視野を持たなくてはならない。目の前の人だけを守れば良いというわけではない。もっと全体を見なくてはいけなくなる。その視野を得る為の努力はしなくてはならないと千尋は思った。

「もし、二ノ姫?」

 考え事をしていた千尋に、一人の官人が声をかけてきた。千尋には王族として敬われるべき立場だという自覚がないので気付かなかったが、本来高貴な人物に声をかけることは無礼にあたる。官人や身分がそれなりにある人物であるなら尚更、徹底しなければならない事項であり、千尋は大将軍ではあるが女性で、高貴な女性に本来なら自ら声をかけるなどあってはならない。――天鳥船内でもそのように恭しいことをされたことがないので、千尋が知らないのは無理もないのだが。
 要はこの行為自体が無礼なのだ。

「私にご用ですか?」
「さきほどの村人とのやりとり、聞かせていただきましたよ」

 官人はまるで悪いことを見咎めたかのような表情をしていた。だが、千尋は何が悪いのか思い当たる節がない。仕事もある村人に声をかけるのは失礼だったのだろうか。

「作物の実りが思わしくないという話ですか」
「ええ、ずいぶん熱心にお聞きになっていたようですな。民の言葉を鵜呑みになさるのはいかがかと存じますが?」
「えっ?」
「民は悪知恵がよく働く。いかに楽するかを常に考えているのです。そのためにはどんな嘘でも平気でつく」
「そんな言い方って……」

 初めから決め付けたような言い方に千尋は少し引っかかった。

「本当のことかなんてちゃんと見ればわかるわ」

 彼らは皆、顔色も悪かった。そして生活を営むのに必要とする火が、家から出る煙が少なかった。客観的な事実から見ても生活が苦しいのは確かだ。
 そのことを官人に説明したのだが、まるで千尋のことを嘲るような目で見て、千尋の言うことに耳を傾けようともしない。

「租税を納めるは民の義務。怠るものあらば、処断するのが君主というもの。締めるところは締めなくては、安定した統治は望めませぬぞ」

 安定した統治は国を強くする。そしてそれには安定した税収が必要なことくらい千尋にだって分かっている。だが、それ以上に大事なことは国を構成する民だと思うのだ。

「でも、荒魂のために国が荒れてみんなが貧しいのは事実だわ」

 そして、それは民の生活を守れていない国にも責任がある。

「無理やり昔どおりに作物を納めさせようとするんだったら……常世の国と、――レヴァンタと何も変わらない」

 彼の領主のようにはなりたくなかった。千尋が弓を取り、戦おうと決めたのは、レヴァンタのような悪政を執る領主や国から、民を守りたいという思いからだ。そんな目に会う人達を見捨てたくないという思いが、今の千尋を作った。だからこそ譲れぬ思いなのだ。

「まだ国を取り戻していないから大きなことはできないけど、少しずつでもみんなが豊かになるように努力すべきではないの?」

 そうすればいずれ税収だって上がる筈だ。民が栄えることこそ、国が栄えることに繋がる。それが千尋が5年の時を過ごした世界の成り立ちだ。同じように適用出来るとは思わないが、理屈としては決して間違っているとは千尋には思えない。

「ふっ、では、民の言いなりになればよろしい。姫が優しさと思っていることは甘さ以外の何物でもない。そのような統治では国は長く続きますまいな」
「―――っ!」

 千尋は政とは何かを分かっていないのかもしれないことは自身も理解していることだが、間違ったことを言ったつもりはない。民の声にも耳を傾けなくてはいけないということが、何故分かってもらえないのか。国を作るのは王族の力だけではない。民がいて初めて成り立つのだ。それを分かってもらえないことが悔しかった。

「何をしている?」

 聞き慣れた声が千尋の後ろから聞こえ振り返る。そこに忍人がいた。いつもより表情が厳しいのは気のせいだろうか。

「これは……葛城将軍ではありませんか」

 官人の表情はどこかひきつっていた。千尋にはその理由が分からなかったが、忍人の出身の族を考えれば当たり前なのだ。葛城の族は代々中つ国に仕えてきた豪族であり、王族の伴侶を何人も輩出している。そして、忍人自身も中つ国の将であり、国の中でも身分が高い。身分が高く、厳格な彼に睨まれれば表情が堅くなるのも当たり前だろう。

「この方は中つ国の二ノ姫。口を慎め」
「私はあくまで二ノ姫に……」
「高貴な女性に自ら話し掛けるのも無礼にあたることを知らぬほど、愚かではなかろう」
「……っ」
「早々に立ち去れ」

 痛いところを突かれたのと、何より身分の高く武官としての権限のある忍人に何か言うのは不利であると判断し、官人は逃げるように立ち去っていく。千尋相手では説得することさえ出来なかったというのに、忍人は黙らせ、追い返せてしまった。

「忍人さん、すごいですね…」
「何がだ?」
「私では話を聞いてもらうことさえできなかった……やっぱり、まだまだですね」

 苦しんでいる人達の為に何かしたい。そう思っているのにうまくいかない。それが歯痒く、そして情けなかった。

「こんなんじゃ駄目だって分かってるんです。私が力不足だから……」

 力不足でなければ、神に祈るなど形だけのことをしなくても、民を安心させることができるのに。今の千尋では味方さえも納得させることができない。自分の実力不足が情けなかった。

「………気にする必要はない」
「……え?」
「風早や柊ならそう言うだろう。……民の声に耳を傾ける君だから、兵もついてくるんだ。力不足と分かっているなら、力を付ければいい。君に期待しているのは俺だけではない」

 語彙が優しいわけではないし、雄弁なわけでもないが、忍人が優しいことは言葉の一つ一つを聞けば分かる。そして、手放しに彼が褒めたりしないことも――だが、今の千尋には自信が持てなかった。
「でも……私が決断を誤れば、たくさんの命が消えてしまいます」

 もう千尋は大切なものを失いたくない。それだけの実力が欲しかった。神の力や王族としての権力ではなく、自分の力が欲しい。

「君の言う通りだ。決断を誤れば、全滅することもある。……だが、後ろを振り返ることはできないだろう?」

 そう言葉を発する忍人の表情はあくまで普段と変わらないが、先程のように言葉に迷っているようではなかった。

「君は前を向いていればいい。どうせ何をしても決断せねばならない時は来るんだ。ならば、悩むよりもその時の為に力を付けることを考えるべきだ」

 確かに忍人の言う通りだと思う。悩むよりも行動する方が建設的だし、千尋らしい。自分の至らぬ点があるなら、改善するしかない。千尋はもう皆を率いて戦うことを決めたのだから。振り返る時間などない。

「まずは一人で行動するような軽率な慎め。だいたい君は何故いつも一人で……」
「す、すみません!!今後気を付けます!!





 千尋のわだかまりは消えたものの、実際禊さえも出来ないという状況は変わらず、今後の対策を練る為にも天鳥船に戻った千尋達だが、そこで思いも寄らぬことを耳にした。

「ついに、龍が姫様の祈りに応えて姿を現したようですね」
「姫様にお仕えするすべての者が、この日を待ちわびていたのですよ」
「おめでとうございます、姫様」

 禊も済ませていない千尋に、龍が祈りに応えたという不可思議な内容だ。

「えっ、ええ……ありがとう」

 混乱を招くわけにもいかないので、あえて否定はしていなかったが、千尋は困惑していた。

「……どうしてこんな噂が広まってるんだろう……」
「さあ?僕にもそれは分からないけど……なんだか気味が悪いね」

 千尋の呟きに、隣に居た那岐が返す。そう、那岐の言う通り誰がそんな嘘を流したのかが分からず、少し気味が悪いのだ。
 とにかく、現在どのようなことになっているのかが分からなければ立ち振舞い様がない。狭井君に確認を取りに向かうことにした。

「――二ノ姫、ようこそいらっしゃいました」
「あの、狭井君……」
「どうされたのです?お顔の色が優れないご様子。何か、気にかかることでもおありなのですか?」
「――もう、お聞きですよね。天磐盾に龍が現れたという噂を…」
「ええ、あなたの祈りに龍が応えたのでしょう」

狭井君は何も慌てた様子もなく、そう口にする。

「そんな、私はまだ――」
「少なくとも、民たちはみな、そのように信じております」
「――っ…!」

 民、という言葉を耳にすると、千尋は何も言えない。彼らの期待を裏切ることは避けたいことだし、それが王族としての務めだと理解はできる。

「ご安心なされませ。龍はあなたを認めておられます。この審神者の力を、どうぞ、信じてはいただけませんか?」
「…………………」

 しかし、当の千尋に龍の力を感じることはない。使いこなせるわけでもない。そんな見せかけだけの行為でいつまで士気が保つのだろう。

「申し上げます!」

 武人が焦った様子で部屋に入ってくることで、静寂が破られる。

「何か、異変でも?」

狭井君が尋ねる。

「はっ、火急にお伝えすべきことが…」

 武人の様子からただならぬ事態であることを察した千尋も、何があったのか尋ねると、思いも寄らなかった、だがいつかはくるであろうと予測していたことだった。

「常世の軍勢が橿原方面より侵攻!!
「常世の国の軍勢が…?!
「それで、常世の軍は今、どこに?」
「果無峠の先に布陣の模様」
「そうですか。龍の噂を聞きつけたのかもしれませんね」

 こんなに早く聞き付けたこと、またそれだけ龍の加護があるということが周辺の国々に影響を及ぼすことを千尋は初めて実感した。龍の声が聞こえぬ姫として隠されるように育ち、そして未だにその頃の記憶が薄い千尋には、中つ国の基盤となる龍の加護に対する認識が薄い。どれだけ影響があると口にされても、これほどの影響力があるとは思っていなかった。

「ほかに報告はありますか?」
「いえ、以上です。御前、失礼いたします」

 武人は足早にその場を去る。他にも伝えなくてはならない場所があるのだろう。
 再び静寂が戻り、狭井君が静かに口を開く。

「二ノ姫、話の途中でしたがここまでのようです」
「…はい」
「常世の勢力をこちらへ近づけてはなりません。どうか、出立のご準備を」





 早急に準備をし、果無峠へと出立した千尋達。
 しかし、千尋の耳にはあの出雲での戦と同じ鈴の音が届いていた。
 龍がいるから士気が高まる兵達を他所に、千尋は不安は募るばかりだ。千尋にはそんな力はなく、龍はこの戦で手助けなどしてくれない。

(救うどころか……心の弱さから、たくさんの犠牲を招いてしまった私なのに)

 果無峠を越え、常世の陣のある宇陀へと足を進めていく。そして、千尋の不安に呼応するように鈴の音は鳴り響いていた。

(私がこんな状態では駄目。今は常世の軍どう対峙するかを考えなくては)





「やはり、ここまでいらしたか……二ノ姫」

 千尋達の前に立ちはだかったのは、顔の皺からするに衰えを覚えていてもおかしくないというのに、威厳のありただならぬ相手だと分かる武人だった。

「あなたは………」
「我が名は、ムドガラ。できるなら、あなたとはこのような形で出会いたくなかった」

 ムドガラと名乗った人物は千尋のことを知っているような口振りだった。

「それは、どういう…」
「あなたがたは、まだお若い。できるなら、この刃をあなたがたに向けたくはない」

 しかし、それ以上は何も言わない。ただムドガラは今まで対峙してきた敵とは違う。それだけは分かる。

(この人、敵なのに、なんだか………)

 それ以上の思考は柊によって遮られる。

「ふふ、我が君迷ってはなりません。我が君の進むべき道を阻む者には違いないのですから」
「………っ……そうだね。迷ってはいけない」

 目の前の敵がどんな人物であれ、躊躇うわけにはいかない。

「あなたが熊野に攻めいれば、中つ国は本当になくなってしまう」

 千尋は中つ国の姫だ。豊葦原を救う為にはこの道筋しかない。

「やはり、我々は刃を交える定めなのです。望むと望まざるとにかかわらず……」

 ムドガラは目を伏せ、一瞬悲しげに見えたが、彼の覚悟は既に固まっている。戦を避ける道はない。

「わしは、この道を譲るわけにはゆかぬのですから」

 それは千尋も同じだった。千尋は弓を構え、同じようにムドガラも自身の武器を構えた。






「――っ……くっ…」
(神子っ?!)
「姫!お怪我は……」
「ありがとう……大丈夫」

 想像は出来ていたが、千尋達は苦戦を強いられていた。

(ムドガラ将軍、あの人、まったく隙がない。このままじゃ……)

 弱い気持ちがまたふつふつと浮かぶ。千尋の脳裏には最悪の状態が思い浮かんでいた。
 ここでもし采配を誤れば、全滅するだろう。王族である千尋を逃がそうとして、仲間が盾になる。千尋がどんなにそのことを嘆こうと疎もうと、仲間がそうするであろうことを千尋は何故か察していた。真っ先に誰が倒れるのかも。

(どうしたらいいの?どうすれば仲間を救えるの?どうしたら………)

 気持ちばかりが焦る。落ち着かなくてはならないことは分かっているが、ムドガラは例え一人であっても強い相手だ。現状では倒せない。そして、退けば熊野が落とされる危険性が高くなる。もう逃げ場はない。





――シャン――





 鈴の音が響く。と、同時に千尋を、「――神子」と呼ぶ声がしてハッとする。この声は千尋だけしか届いていないが、これはあの火の雨を降らせた者の声だ。駄目だと思った時には、既に異変は始まっていた。

「空が、曇っていく…?これは――」
「ムドガラ将軍、これは、もしやあの…」
「…ぐ、ぐあっぐはあああっ!」

 常世の兵士達の苦しむ声と共に、はっきりと龍が鳴く声が聞こえた。

「いかがした」

 ただならぬ様子にムドガラも声に少し困惑を混ざっているようだった。

「…は…はあ…ふ…フハハハハ」
「ヒャヒャヒャ!」

 苦しんでいた筈の兵士が急に笑い出した。ただ笑っているのではない。どこか狂ったような笑い方だった。

「皆の者、いかがした、気をしっかり保て!――正気に戻れ!」

 この、身体の中心から冷えていくような感覚に千尋は身に覚えがあった。出雲でアシュヴィンと共に居た時に会った、人だったものと同じだ。

「…信じられない。信じられないけど…この人たち……常世の兵たちは、みんな荒魂になってしまったの?」

 人が荒魂になれば、もう彼らは元には戻せない。人の手ではどうしようもなくなる。それはムドガラにも同じことが言える。

「いけない、ムドガラ!ここから逃げて!」

 敵だと分かっていながら、危険が迫っていると分かれば、そう言わずにはいられなかった。

「我が将兵を見捨てて逃げられようか」

 しかしムドガラは一切動こうとはしなかった。自国の兵たちに攻撃されようとその姿勢を変えようとはしない。

「ぐはあっ!」
「ヒャハハハ!」
「ま、待て!わしだ、わからぬのか…!う、うぐ…くっ」
「やめて!やめて、こんなひどいこと!」

 誰から見てもそれは地獄絵図でしかない。千尋は半分悲鳴のような声で、制止を促すことしかできず、他の誰もが声を発せず、その光景を見ていることしか出来なかった。

「――神子」

 千尋を呼ぶ声と共に、龍の嘶きが聴こえる。

「――姫、まさか、あなたが…?」
「違う!私じゃない…」

 そう千尋が望んだことではない。こんな勝利を得たいわけではない筈なのに、龍は千尋に勝利を手にするよう呼びかけてくる。

「私………?」

 そして、千尋の気持ちに呼応するように、龍は降臨する。

「おい、見ろ、龍神様だ!」
「龍神様が降臨なされた」
「二ノ姫がお呼びになった龍神様だ」
「ついに龍神様が姿を現されたぞ!」

 現れた龍は黒き龍だった。禍々しい陰の気を放つ、神と呼ばれるにふさわしい存在。

(嘘……私?私が、呼んだの…?この、黒い龍を?)

 だが、その力はあまりに強靭で――何よりこれが中つ国を加護する龍神には思えなかった。

「神子、我を呼んだのは、汝が願い。汝の願いが、我を呼び、常世の軍を破滅せしめた」
「そんな……私はこんな勝ち方、望んでいないわ」

 正々堂々と勝ちたいと思うほど、中つ国に余裕はないのも分かっているし、正攻法でなければならないと思うほど、千尋も綺麗な人間ではない。だが、こんな残酷な勝利を望んだりは決してしていないのだ。

「だが、勝利を願った。敵の軍を滅し、力を入れることを」
「力なんて、そんなもの…」
「汝は求める。その小さき手のひらにさらなる力を」
「そんなこと……」
「汝は望む。汝が力を得しことを阻む者の滅びを」
「私は………」
「人とは、愚かなもの」

 鈴の音が頭に響く。と、同時に意識が遠退きそうなほどの痛みが走る。

「人の業は、幾星霜を隔てても変わらぬ……」

 龍は言葉を紡ぎ続けた。

「人は力を望むもの。力を望み、武器を握り傷つけあう」
「それを、あなたはずっと見てきたの?」
「ずっと、眺めてきた。そして、裏切られてきた」

 黒き龍は争いを嘆いている。そんな風に千尋には思えた。

「人は変わらぬ。限りなき時の螺旋を経ても変わらぬ――変わらぬならば滅びるしかない」
「………っ!」

 この時、千尋は直感的に感じた。この龍は中つ国を加護するものではない。皆が思うような神ではないと。

「人の子よ。滅亡の炎に抱かれながら悔やむがよい。己がこの地に刻みし無益なる伝承の数々を。そして……滅びるがよい」

 それどころか、この龍は千尋達を滅ぼそうとしているのだ。
 龍が人が争うことを嘆き、失望していることは分かったが、それで滅ぼそうというのは到底受け入れられない。誰であろうと、人を滅ぼすなどあっていい筈がないのだ。それしか道がないわけじゃない筈だ。

(人の世を滅ぼすなんて…)

「そんなの間違ってる!」
「神の裁きを間違いと申すか?」
黒き龍は何も不思議なことはないといった態度を取る。
「我は龍神。人の子が、我を判ずることなどできぬ。力を求め、争う。それは時を越えても変わることなき人の性だ」
「違う!人は争いたくて争うんじゃない」
「ならば、なぜ争いを繰り返す?なぜ、痛みを厭いながら他の者に痛みを与える?」
「それは……」

 黒き龍が言うように、人は争いを繰り返す。平和を望んでいる筈なのに。それはこの世界に限った話ではなく、千尋が5年の時を過ごした異世界でさえそうだ。愚かな側面があることを否定は出来ない。

「そういうことが起こっていることは確かに否定できないけれど」
「なれば――」
「でも、そんなことが必要なくなるような世を、私は、作りたい…!」

 皆が無事であるように、怪我なく過ごせるように。それが千尋の願いだ。そんな世を作る――それこそ、千尋の指標とすべきことだ。
 そのことに気付いた時、天羽羽矢が光始めた。
 この矢は布都引と那岐と共に見付けたもので、これには破魔の力があると那岐が口にしていたことを千尋は思い出していた。

(この矢で、あの龍を止めることができる?)

 龍に矢を射ることに全く躊躇いがなかったわけではない。皆は龍神だと信じている。それを射かけるということは期待を裏切る行為であることを千尋も分かっていた。

「………………」

 だが、千尋は弓を構えた。この龍を放っておいては人は滅んでしまう。彼の者が人を滅ぼす前に止めなくてはならない。皆を守るにはそれしかない。そう思えば躊躇いなど感じる暇はなかった。

「我に、逆らうか。人の身で、この我に逆らおうとするか」
「私は――」
「愚かなものよ。ここで、我を止めようと欲しても、己が死を早めるだけ」

 仮に報いを受けることになったとしても、今ここで全滅するよりはマシだ。千尋一人の命で避けられるなら安いものだと千尋は思う。

「人の生はかげろうのごとく短い。人である汝は、その目に滅びを映すこともないかもしれぬ。それでも、我に逆らうことを欲すか?我を滅することを欲すか?」
「この弓で、私はあの龍を止める!」

 千尋は弓をひき、龍に向ける。陰の気がそれを阻むように千尋を蝕むが、千尋は何としても当てなくてはならない。ここを逃したらもう機会はないと本能が告げる。

「――当たれ!天羽羽矢よ、黒龍を止めよ!」

 矢は確かに龍に届き、陰の気は確かに弱まったが、止めるに至らない。

「陽の気の矢か。だが、このような矢で、我を封じることができると思うか」
「くっ…それならばもう一矢射かけるまで!」

 もう一度、矢を射るため、弓を構える千尋。それを制止したのは仲間の声と、叛徒を捕らえろと千尋を囲む兵達だった。

「二ノ姫が、龍神様に矢を放ったぞ!」

 戸惑いながらも、千尋を庇おうと出てきたのは布都彦だった。一番傍に居たこと、そして千尋に対する忠誠心からの行動だった。

「この者、鬼神のごとき…」

 布都彦のことは、年若ではあるものの、その実力から知る者も多い。その為、兵達も一瞬足を止めた。

「ひるんではなりません」

 しかしその行いを諫めたのは狭井君だった。

「狭井君……?」

 狭井君がここに現れると予想しておらず、布都彦は困惑した声で狭井君の名を呼んだ。千尋も同じで、思わず黒き龍から視線を外し、ハッと狭井君を見る。

「龍はこの国を守りし神。この龍をあがめ、敬うことこそが、王たる者の務め」

 それは千尋も知っている。知っていて、この選択をしたのだ。軽率だったと責められはしても、後ろ暗いところはどこにもない。

「――みなのもの、姫を捕らえなさい」

 だが、この言葉に千尋は驚きはなかった。龍に弓をひいた時点で覚悟はできていた。

「えっ……」

 しかし仲間の殆どが驚きと困惑の声を挙げた。互いに顔を見合わせ、そして千尋に視線を向ける。

「――布都彦。姫を取り押さえなさい。姫は、龍に背いたのです」

 千尋の近くに立つ布都彦に狭井君は命じる。
 布都彦にとって現在の主は千尋だ。だが、彼は国に厚い忠誠を抱く者。その者にそんな命令をすればどう思うのか。理解はできずとも、戸惑いは分かる。
 そして、仮に布都彦一人が荷担したところで状況は変わらない。何故なら助けに入れるであろう人物は限られている。長い時間を共に過ごしてきた風早や那岐。国に属していない日向の一族であるサザキ達や遠夜。柊ももしかしたら助けてくれるかもしれない。
 だが、殆どが“中つ国”の兵なのだ。それを千尋は空気で感じていた。この状態では弓もひけない。ひけばすぐにでも取り抑えられるだろう。
 ならば狭井君を説得し、理解を得た方が良いのではないかと千尋は思う。国を想う彼女であれば理解してくれるかもしれない。

(布都彦)

 布都彦にだけ分かるように目配せする。布都彦はやはり困惑した様子で、千尋を恐る恐る捕らえた。






その様子を見ていた忍人の表情は失望と戸惑いが浮かんでいた。







































あとがき
 忍人さんはここでは助けないと思うんですが←
 布都彦ルートだし、ちょっとだけ布都彦出ました。たぶん、この布都彦に助けてって言ったら助けてくれる気がする。千尋ちゃんの臣下って意思が主だっていると思うので。

 たぶん、無駄な描写を入れすぎてこんなことになってしまったんだと思いますwだってあの官人ムカつく←
 回収中にムカついたので、忍人さんに撃退してもらいました。権力という名の力でwwwたぶん、権力に弱いタイプだと思ったし、忍人さんに睨まれたら恐いよねと思いました。

長らくお待たせしてしまいましたが、ここまで読んで下さってありがとうございます。続きも時間はかかると思いますが、読んで下さると嬉しいです。
























back top next