第四話
「残念です、姫があのようなことをなさるとは思いませんでした」
狭井君は千尋を前にしてそう口にした。
「独断であのような行動に出たことはお詫びします。でも――」
あの龍は人を滅ぼすつもりだ。そう続けるつもりだったが、狭井君がそれを阻むように口を出す。
「どのような事情であれ、中つ国を守る龍に、刃を向けるなど…。この償いは、早急に行っていただかなくてはなりません。龍の体躯の、あの矢を抜くのです」
矢を抜くということは即ち、龍を抑え込んでいる力を解放するということだ。
「ことが、公にならぬうちに」
「そんな……できません!あの龍は、人の世を滅ぼそうとしている」
だから千尋は民からの失望を覚悟で矢を放った。その行為が王族らしからぬことであると知っていたが、あの場で射なければ龍を抑える機会はない。そう判断しての行動だった。
「たとえそれが今でないとしても、あの黒い龍は、中つ国を守る龍とは違います。だから――」
「お静かに」
狭井君はそれ以上言わせようとしなかった。
「姫のもとに現れた龍が偽物だなどと口になさってはなりません」
「それは……?」
「龍と意思を交わす姫がいること。それが、この国の礎。人臣の心の依代。今後、いっさいそのような発言を人前でしてはなりません」
その言葉の中には引っかかることがあった。
(どういうこと?龍の神子たる姫が国の礎…?)
言葉の意味を千尋は考える。だが、思考がうまくまとまらない。
「よろしいですね?」
「………………」
千尋が龍に祈るという名目で幽閉されている間に、進軍し、橿原宮を奪還していた。だが、それでも千尋が解放される気配はなかった。
「で、千尋はいつになったら解放されるんだ?」
那岐が不機嫌そうに呟く。布都彦も不安そうに俯き、その問いに答える。
「それは、わからない。狭井君がどのようにご判断されるか次第かと」
「姫は、中つ国を守りし龍神に刃を向けられたのです。そう簡単に解放されないでしょう」
道臣はそう言ったが、これは道臣だけの意見ではなく、中つ国に長年仕えてきた者なら当然のように思うことだ。しかし、元々中つ国にそれほど執着のない那岐からすれば、あの龍自体が中つ国を守る龍であるかも怪しいと思っているし、そう口にする。
「狭井君が審神者の力で中つ国を守りし龍神だと判じられたのだ。疑う余地などない。
狭井君は昔から中つ国に仕えてきた人物であり、審神者の力は確かなものだ。
誰もその力が実際はどういうものかを知りえない。だが、中つ国の者はそれを信じて疑わない。それはこれまでの狭井君の先代女王の側近としての業績もあった。
審神者の力を信じない人物はいない。
「………」
しかしただ一人、風早は憂い顔で俯いていた。
二ノ姫が龍に弓をひいた事実を知る者は少ないが、それは少なからず人民に衝撃を与えた。忍人もその一人で、千尋が何故、龍神を射たのかが理解できずにいた。
千尋は気が狂ってしまったわけではないことは、彼女の傍にいれば分かることだ。
千尋の民を想う心は、兵士一人一人を気遣い、決して見捨てない様からよく分かる。それは綺麗事であると忍人も思うのだが、その綺麗事をやってのける姫だからこそ皆ここまで付いてきた。だからこそ皆の失望を買うようなことをするだなんて未だに信じられない。
気が触れてしまったのではないかと考えるのが自然かもしれないが、それは違うと忍人は断言できた。千尋が弓を射た時の表情は決して恐怖に染まっていたわけではなかった。そこには何らかの覚悟が見えた。それは忍人だけでなく、皆が気付いていたことだ。
だが、何を思っていたのかは分からない。狭井君はあの龍が中つ国を加護する龍神であると判じたのだから、あれは中つ国の龍神なのだ。その龍神を、どんな理由があるにしても弓をひくことが許される筈がない。中つ国への裏切りとも取れる行動だった。
だが、忍人は千尋が裏切る筈がないと思っている。二ノ姫と話がしたいと。この疑問を解決できるのは千尋しかいない。
機を見て、忍人は千尋が幽閉されている建家まで来る。葛城の名が、ここに来るまでの障害を除き、堂々と正面から入ることができた。
名に恥じぬ行いを、と普段から自分を律している忍人だが、利用できるものは何だろうと利用するだけの狡猾さは持っている。今回のように個人的な理由で使うことはないが、千尋が考えていることを知りたいと、家臣の一人としても思っている。
「二ノ姫、失礼する」
「忍人さん?!」
流石の千尋も、忍人がここに来るとは思っていなかったのか、忍人の来訪に大変驚いていた。が、内心、漸く仲間に合うことができてホッとしていた。見知らぬ者ばかりに監視されていて、息が詰まりそうな生活を強いられていた千尋は、その程度で屈するつもりはなかったものの、不安に思っていたのも確かだった。
「忍人さん、皆は変わりはありませんか?あの龍はどうなりました?」
千尋が気掛かりだったのは二つ。仲間が元気でいるかどうか。そして、あの龍がまだ動き出していないかどうかだ。
「ああ。特に変わりはない」
「良かった……」
そう安心したように微笑む千尋は、忍人の知る千尋そのものだ。仲間や民を思う、優しい姫のまま。だが、だからこそ、千尋がしたことに疑問と失望が湧く。
龍を射ることはあまりに浅慮なことだ。忍人が期待していた姫のすることではない。だが、深く考えずに行動を移すような人物ではなかった筈だ。だからこそ、千尋の考えを知りたい。忍人の目的はそれだった。
「二ノ姫、何故龍神を射た?」
「………」
千尋の顔色が険しくなる。言うべきか否か、正しい判断をつけようがない。言わない方がいいのかもしれないが、忍人には伝えておきたいと千尋は思った。理解してもらいたいのかもしれない。何故理解してほしいと思うのかは分からないが。
「……あの龍は人の世を滅ぼそうとしています」
「あれは……中つ国を守る龍神だろう。そんな筈はない」
「本当なんです!……信じられないかもしれないけれど、黒い龍は確かにそう言ったんです」
千尋はずっと龍神の声を聞くことができなかった。そんな姫が信じてもらえないかもしれないが、これは信じてもらわなければならない。
「だが、狭井君はあれを中つ国を加護する龍神だと判じられた。狭井君の審神者の力は確かなものだ。……本当にそれは龍神が言ったことなのか?」
千尋が嘘を言うとは忍人も考えていない。それはこれまで過ごしてきた時から分かる。他人に対して何の利益にもならない嘘を彼女が言うわけがないのだ。自分の為だけに、他人を傷付ける嘘など吐く筈がない。
だが、狭井君は長年中つ国に仕えてきた重臣。その忠誠心を疑う余地はなく、狭井君が国に対して虚偽を報告し、国に仇なすと忍人には考えられない。
「確かに聞きました。本当です」
空耳でないことに千尋は確信をもっている。だが、自分の言葉を何人が信じてくれるかは自信がない。
千尋は王族という以外はただの娘なのだ。政も分からず、姉や母のように力を持っているわけではない。信じてもらえなくても仕方ないことかもしれないと、心のどこかで考えている。 それでも淀むことなく言い切ったのは、信じてもらいたいのに、自分の言葉に自信がないままでは信じてもらえないからだ。それは千尋も分かっている。
「君を疑っているわけではない。だが、君の言っていることが正しいとして、狭井君があの龍を神だと嘘を言う理由が分からない。皆を騙して何か利があるのか?」
「……国の礎…」
千尋は狭井君の言葉を思い出していた。
『龍と意思を交わす姫がいること。それが、この国の礎。人臣の心の依代』
そう確かに狭井君は口にしていた。龍と意思を交わし、龍の加護を得る姫がいることが中つ国の礎であると。つまり、その姫がいないことは中つ国が中つ国たり得ないということだ。
千尋は“中つ国の”姫だ。龍を喚ばねばならない。しかし、それは出来ないのだ。千尋が聞いた声はあの黒き龍のみ。あの龍を崇める以外に“中つ国”の再建が有り得ないのだ。
だが、龍は人の世を滅ぼそうとしている。今倒せねば取り返しがつかないのだ。
「二ノ姫?」
「忍人さん、中つ国は龍の加護がある国ですよね?」
「ああ。そうだな」
千尋の言ったことは確認するまでもないことだ。
「その加護が得られないとなったら、どうなると思いますか?」
「……兵達の士気は下がるな」
人民が国に愛着が湧くのは何らかの理由がある。中つ国の場合であれば豊かな土地と、それを加護する龍神。龍神の加護がある国だから付いてくる兵や家臣達も多い。国が滅んで以降は尚更そこに縋る者が増えた。そのことを思えば、今その前提を失えば、漸く宮を取り戻しこれから力をつけなければならない時に、国の混乱は避けられない。
「………」
「……君が龍に弓をひくことによって、国の礎が崩れるわけだな」
「…っ…でも、私は、国として再建するよりも、皆を守る方を取ります!それで私が王位につけなくても…!」
「二ノ姫」
忍人が険しい表情で千尋を見る。
「それが本心であっても口にするな。人払いはしたが、誰が聞いているか知れない。……君以外に王位を戴いてもらいたくはない」
「忍人さん……でも、黒い龍を止めるには破魔の矢でしか……」
「………」
忍人は黙り込む。何か考えているかのように。千尋も言うべき言葉がなく、俯く。千尋が今、王位を無視し、龍を滅ぼせば、今まで千尋を信じてついてきてくれた仲間に申し訳が立たないことは確かなのだ。期待を裏切るのは心苦しい。けれど、それでも皆を守りたいと思ったのは千尋自身だ。今更迷ってなどいられない。
しかし、忍人が出した結論は意外なものだった。
「……君の放った矢はまだあの龍に刺さったままだな」
「はい」
「ならば、多少力が弱っている状態だ。……君が手を下さなければ、問題はない筈だ」
「忍人さんっ?」
千尋は嫌な予感がした。この言葉の先を知りたくないと、そう本能的に思った。
だが、忍人はその先の言葉を口にする。
「俺があの黒き龍を倒す。それならば……大きな混乱は避けられる筈だ」
あとがき
忍人さんなら自分がやるって言うと思ったんです。
勿論、一人で立ち向かおうと考えているわけではないです。一人じゃ間違いなく無駄死にだと分かってますとも。同士を募れれば募るでしょうし、でも最悪一人でもやるかな…と。
割と真っ直ぐ突っ込むタイプだと思うんですが。策士タイプではなく、かと言って純粋なわけではないので、自分が汚れ役を演じるのは厭わないけれど、やり方は非常にシンプルなタイプだと。……将軍がこれで良いのか甚だ疑問ですが
次回千尋ちゃんが必死に止める……の回ですw嘘です、そろそろ将軍を語る際に問題となる破魂刀の話をしますwww
今回は割と短めですが、ここまで読んで下さってありがとうございます。次回もまた読んで下さると嬉しいです。
back top next