第三話
桜の盛りが少し過ぎたある日のこと。
「千尋、いる?」
那岐は千尋の部屋にほぼ無断で入る。いつものことなので千尋は特に咎めることはない。本当は咎められてもおかしくないことなのだが、那岐が王族だということは既に周知の事実となっていることで、その王族―――千尋に何かあれば王となるもの―――を咎められる者はそうはいない。王である千尋が認めている以上、口出せない。反面、それだけ千尋が力を付けたということでもあるのだが。千尋の力がないならばこうはいかない。
それでも現在千尋の傍にいて、気軽に会話できる身であるのは那岐くらいだ。風早も傍にはいられるものの、あくまで千尋の従者でしかない。人前で気軽に話せない。風早自身は自分が咎められることは気にしないのだが、それを千尋が気にする。風早も千尋を困らせたいわけではないので、傍にいることしかできないでいる。
そして気軽に話せる人物である那岐は、自分が王族である身分を利用して千尋の仕事の補佐をできるようにまでなっている。那岐自身、このような立場にいることは本意ではないし、向いていると本人は思ってない。それでも千尋の為にこの立場に身を置いている。放っておくとずっと仕事をし続けてしまう千尋を助け、また止めることができるポジションにいることで那岐なりに千尋を守ろうとしているのだ。と言っても、それを口に出すことは絶対にないのだけれど。
この日のように那岐が千尋の部屋に入ってくるのも、仕事の補佐を行う反面、暗に少し休憩をしようという誘いでもある。それに千尋が気付いたのは王となってしばらくした後だった。無視することももちろんできるのだが、それだけ心配をかけているのだということを思うと、その好意に甘えざるを得ない。心配する側がどれだけ辛いか千尋は知っているから。
しかし今日は少し様子が違った。
那岐はいつもの面倒そうな表情ではなく、真剣な表情だった。
「那岐、どうしたの?」
「ねえ、まだ噂の段階なんだけど、聞いた?千尋の婿候補のこと・・・」
「いや、聞いてないけど・・・」
「まあ、そうだろうね。聞いてたらこんなに暢気でいるはずがない」
那岐は少しだけ深呼吸して言った。
「あくまで噂の段階だからね。まだちゃんとした決定じゃない」
「う、うん・・・」
「・・・千尋の婿候補の中に、忍人の名前があるらしい」
「・・・え・・・」
千尋は顔色を変えた。この八年で宮から殆ど出ることがなくなった千尋の肌は白かったが、それが更に白くなる。
千尋と忍人の間にどういうことがあったのか知る者は少ない。那岐も知らないうちの一人だ。わざわざ干渉する必要はなかったし、千尋が何か言うまで知ろうなどとは思わない。だから千尋の前で忍人の話はしなくなった。周囲もおそらくそうなのだろう。
それでもあえて今、忍人の名前を出したのは那岐なりに千尋のことを想ってのことだ。この話はいずれ千尋の耳に入るだろう。それだけ忍人の可能性が高いのだ。生まれも能力も年齢も釣り合う忍人が婿となる可能性はかなりあることも、その話が本腰入れて話されていることも那岐は知っている。ならば、今この場には那岐と千尋しかいない状況で言う方が千尋もうろたえることが許される。無理をさせることはないと判断したのだ。
しかし、これほどまでに千尋がうろたえるとは那岐も思っていなかった。
女王となった千尋は笑顔を絶やすことはなかった。その笑顔は昔の千尋を知る者であれば痛々しいものではあったが、悲しい顔は見せまいという千尋の意思を曲げることなど誰にもできなかった。それだけ千尋は立派な女王だった。その千尋がここまで動揺しているのだ。
千尋が忍人に想いを寄せていることぐらい那岐も知っている。ずっと千尋を見てきたのだから分かる。だから気まずい反面、少しでも喜んでくれるのではないかという淡い期待もあったのだが、やはり予想通り千尋は忍人を拒絶している。
「なん・・・で・・・忍人さんが・・・?」
「さあ・・・”葛城”だからじゃない?」
そのことは千尋も分かっている。葛城一族は中つ国で力のある一族だ。忍人の名前が出てくるのもそういう意味では不思議ではないのだが、有力な族は忍人だけではない。あえて挙げるのであれば、道臣だって大伴の族なのだから候補に挙がってもおかしくない。寧ろ千尋自ら遠ざけたことになっている忍人の名前が挙がることが不思議なのだ。それは千尋にとっても那岐にとっても疑問であった。
「噂は噂でしかないけど、一応狭井君に聞いてみた方がいいんじゃない?手が打てなくなる前に」
「・・・うん・・・そうだね」
「・・・千尋・・・もし本当に忍人だったら・・・千尋はどうする?」
「それは・・・」
王として結婚相手に文句をつけるなどあってはならない。そのことは千尋も十分に分かっている。分かっているが、忍人は無理だ。千尋にとって忍人は今でも愛しい人だ。しかし、だからこそ忍人を不幸にするようなことはしたくない。忍人の今まで進んできた道を否定し、奪った千尋を許すはずがない。また忍人は破魂刀と共に千尋への忠義を置いていったのだ。もはや千尋のために心身尽くす気などないはずだ。その忍人に更なる苦痛を与えるなど千尋には我慢できない。
「・・・嫌よ。忍人さんだけは絶対に嫌。もし本当に忍人さんだったとしても私は認めないわ」
あとがき
忍人さんの出番なくね?とか気にしたら負けです。次も出てきません。次の次ぐらいには出てくる予定。寧ろそれぐらいから忍人のターンですよ、きっと。
なんていうか那岐が千尋ちゃんを大切に思っているのは公式です。千尋ちゃん以外何も興味がないのが那岐です。こんだけ那岐プッシュしてるなら那千書けって話ですけど、書きません。近親っぽくて何だか書けません。いっそ本当に近親だったら諦めるんですけど・・・。
那岐も風早同様、こういう風に書くのは書きやすいです。葦原家が好きです。彼らの仲良しっぷりは時空越えようが何しようが永遠に変わらない真理だと思ってます。葦原家万歳!!
とりあえず、まだまだ全然甘くなることはないのですが、読んで下さると嬉しい限りです。
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